昭和56年2月24日朝の御理解
御理解第82節 大蔵省は人間の口を見たようなもので、その口に税金が納まらぬ時は、しぶいた張った戸一枚では寝てはおられぬ。何処の太郎やら、次郎やら解らぬようになろうぞ。
先日、この「寒修行」から日参を続けておられる大城のあの さんが、お知らせを頂かれて、めぐりのお取り払いを頂くという事は、めぐりが難儀を、めぐりそのものが言わば難儀であって、難儀はめぐりのあらわれである。と、それでその難儀から逃れたいと思うならば、天地への還元という事を、言うなら、大難を小難、小難を無難という風に申します。無難のおかげを頂く事の為には、どうぞ無難をと言うて願ったから、無難ということではない。めぐりは以前としてそこにある、難儀の元はあるのですから、その難儀の元をはらうほどしのおかげを頂く為には、神の期待に適わなければならないし、同時に天地へ対するところの還元が出来るという事だと、いうような意味のまたお知らせを頂かれて、ここでそのお伺いが御座いました。ほんとにあの、めぐりのお取り払いも頂きたい、為には天地への還元という事を頂いたが、天地へ還元するという事はどういう事でしょうか、と言うてお伺いになりましたから、「そうじゃなぁ、まぁ色々あるけれども、結局自分で欲を頂いてみて、気付かせて頂き、自分で解らせて頂く。話を聞くばかりが脳ではない。和賀心からも練り出せと仰せられるのだから」といったような話を致しておりましたら、それから2、3日経って久留米の方へ自動車でお出でられるその途中で、とそこに、あるポスターが目に付いた。しかもそれがひどく、ひとつの何と申しまょうかね、インスピレーションとでも申しましょうか、強くそのポスターに書いてある文字が目に入った。言うならば、心に入ってきた。頭に響いてきた。それは確か、税金の、納税のポスターだったらしいです。けどもそれに書いてあるのが、「お国の為にお役にお立たて下さい」といったような事が書いてあったんです。その時に、「ああ、ここ2、3日私が考え続けておる天地への還元とはこれだな」と思うたというお届けが、その翌日ここで御座居ました。まさしくそうですよと言うて話した事でしたけれども、まぁ、今日の御理解もそうですね。税金も何も納めないというような事では、いうならばお国が立たん。お国が立たなければそれこそ何処の次郎やら太郎やら解らないようになってしまおうぞ、と教祖はおっしゃっておられますが、せっかく税金でも納めさせて頂くなら、どうぞお国のお役に使うて頂きたい、使うて下さい、というような内容を持っての納税で、税金を納める内容でなきゃならんと思うんですね。多いの少ないのと不平不足ばかり言うてもでけんなら、ごまかしてでも少しばっかりにしようといったような根性では、天地への還元にはなりません。めぐりのお取り払いにはなりません。それが、天地はの還元、言うなら神様のお喜びを頂けれるような、言うなれば頂き方、納めかたとでも申しましょうかね。例えば教祖様がお百姓しておられる時に、たくさん取れたら、ふつう10俵なら10俵で良いのを、11俵も、それにそえて納められておったという事が残っております。本当に、そこには感謝がいっぱい込められておる、喜びを込められておる、という天地へ対するところの、素晴らしい還元になったこと思うんです。
そういう生き方がだんだん出来させていくようになり、言うなれば、そして初めて平穏無事というか、言うなら、大難を小難、小難を無難といったようなおかげにもつながってくる訳。困ったこと難儀なことがめぐりのせいなら、そのめぐりのお取り祓いを頂く為には、天地への還元が大事だというように分からせて頂く。天地の還元とは、納税のそのポスターから、 さんが感じられたように、『これだな』と。せっかく税金納めさせてもらうなら、「どうぞこのお金がお国のお役に立ちますように」という祈りを込めてのものでなからなければならん。これが本当の天地への還元だなと思われたという事です。
昨日は、ローマ法王が初めて日本へお見えになりました。私ちょうどお祭が始まる前のニュースを見ておりましたら、ちょうどその法王が、飛行機から降りておられるところを飛行機会社の大きな傘、マークの入った傘をこうさしかけて、それこそ春雨降りしきる中をタラップから降りておられるところの場面を、見せて頂いたんです。
そのことが何かしきりに、私夕べから、引っかかるんですよ。例えば金光様のご信心、特に合楽などでは、それこそ大祭にお湿りがあった事が無い。と言われるくらいな言うなら、天地が自由になって下さる、なるほど、天地がバックだなあと。いつも天地と交流しておる印だなといったようなものを感じる、もう何が一番素晴らしいと言うても、宗教では、天地がバックであるという事が一番間違いが無いんです。はあ、どんなに素晴らしい教えがあっても、言うならば、そのバックが何々様であったり、と言ったような程度のものじゃなくてね、天地そのものが、バックであり、天地そのものとの、言うならば調和であり、交流である。合楽の場合は。そこに、合楽世界。
それを私、今朝もここで3時に出て参りますから、天地を遥拝させて頂きます時に此処へ出て参りましたら、やっぱり今日もお湿りがあってるんです。今日もなんか大変ないろんな行事が、あるらしいですけど、今日もまたお湿りの中でである。どういう事なんだろう?
これはもう、キリスト教をつぶしてしまわにゃいかんといったようなことを、先だって、もうある日、そういう意味合いのことを頂いたんですけど、どういうことなんだろうかと、しかも本当にローマ法王と言やあ、私共が言う、生神様のようなぐらいのお方じゃないかとこう思うんです。その方がお見えるのに、その見えた時もお湿りなら、またその翌日もお湿りといったような、どういうことなんだろう、と私が今日御祈念中に思わせて頂いた、馬車がもうたくさん、たくさんな、まあ、荷を引いておるんです。どうしてあんなにたくさん積まれたものじゃろうかと思うたら、それが全部枯草なんです。だからもうたくさん、まあ馬車に詰めたわけなんです。その枯草はどういうことかというと、馬の餌なんです。してみると、自分達の餌のために、たくさんの信者をようして、たくさんというだけが、よいことの証にはならないということなんです。
ね、自分の餌を、しかも枯草ですから、もうそれこそあんなにたくさん積まれるだろうかというくらい、積んである様子を見て、それをこれを感じさせてもらってですね、いうならば、天地への還元ではなくて、人間へのいうならば報酬というか、還元になって、天地には一つも繋がってないのが、今のキリスト教だなというふうに私は感じたんです。
ね、枯草と言えば、馬のはん(飯?)でしょ。馬といやあ、まあ、いうならば、人間の卑しい心と言われる、卑しい心を満たすことのためだけの、そこにはいうならば、キリスト教、もう、400年前、初めて日本にキリスト教があれはザビエルでしたか、布教に見えた時分には、あの片腕の奇跡といったような奇跡がもう頻々として起こったんですね。だからもうとにかくキリスト教は、その当時はヤソ教と言った、その、魔法を使うといった風評があるほどしに生き生きとした働きがあったということでございますけども、今日のキリスト教は、第一根本的に、キリスト教は、いうならば、どういうことでしょうかねえ、本当はもう、人間の敵のような宗教じゃない……これはまあ、どうぞ、……ようなものが内容にあるなあということです。なぜって、何千年という歴史の間がもう 、それこそ血なまぐさい歴史を繰り返しておるからですよ。 ないだけで。
これを見ただけでもね、そりゃ口には、愛の心とか平和とか、とこう言っておりますけれど、ただ愛というても、ただ人間が人間を愛するような 、それこそ昨日も、こちら日本に着かれたら、同時に日本のお土地に接吻をされ、かわいい子供を抱いてはそれを頬づりして、接吻、そういう愛だけなんだなあ、キリスト教では。いうなら神愛といったようなものではない。それでいかに平和を語ったところで、ほんとの平和が訪れるはずも、頂けるはずもないんだなあといったようなものを、今日またなお強く感じさせて頂いたんですけれども、結局天地へのほんとの還元にはなってない。そりゃキリスト教の信者なんかは、財産をもっておる人達は、必ずといっていいほどに、亡くなる時には全部教会に献納だそうですね。だからああいうたくさんな財が集まって、いろんなことができるわけなんです。けれどもそれは天地への還元には一つもなってない。ただ教会への還元であり、人への還元である。
ま、詳しいことは分からないけれども、そんなものを今日の御理解頂いて感じるんです。私共がせっかく税金一つ納めさせて頂くでも、どうぞお役に立つように、なら日々御献費をなさる、お供えをなさる、ね、それが、たとえばお賽銭100円のお賽銭でも、ね、それが天地への還元になるような、心の状態でなからなければならない。
ただおかげ頂かんならん、というだけのもの、ちょうど馬が、馬草をたくさん引っ張っておるようなものではなかろうかという風に私は思うです。ね、これはどうでも人が助かるという子とは、世の中が、いよいよ世の為人の為でありますけれども、その世の為人の為を看板にしておる宗教が、世の為人の為になっていないような、事実がありはしないだろうか。いやむしろそれが、霊的にも、何かこれは、宗教の敵だといったような、宗教すらも、あるのではなかろうかと言う風に、私は感じるんです。
これはもうほんとに、大きな力をもってして、本当の人が、いうならば、めぐりの固まりのような宗教から、いうならこれは例えて言うと、めぐりが百の力があり、どんなに正しいたとえば合楽理念が素晴らしいというても、五十の力しかないならば、やはり百の力が勝です。ところが、めぐりの力が百であり、正しい信心の力が百であるならば、これはもういうなら法則として、絶対正しいもの、よこしまなものが負けることになってるです。百と百の力ならば。それには、なら、まあ、キリスト教を倒すという意味じゃないですけれども、もしほんとに倒さなきゃいけないようなものならば、キリスト教だけの力を正しい信心がもたなければならんのである。いうならば合楽理念に基く助かり、世界にほんとに和賀心、和らぎ喜ぶ心から生まれてくるおかげを願っての、信心というものが、ほんとに力を得なければならないということです。
どんなに正しいというてもです、いくらめぐりだからというてもです、めぐりに百の力があり、正しいものに五十しかないならば、その百の方が、やっぱりめぐりの押しまくられてしまうということです。
だからめぐりが百ならば、こちらもやはり百の力を頂けば、ここにはもう絶対、いうなら正当、邪ですから、正が勝つことに決まってるんです。天地の中にはそういう法則があるのです。
まあ今日のご理解に、当てはまるかどうか分かりませんですけど、私共が皆さん例えば、なら、お賽銭、100円のお賽銭でも、それが天地への還元になるような内容を持ってのお供えでなからなければいけない。それこそ、同じ税金を納めたというだけではない、世のお役に立つことのためにという祈りを込められなきゃならないように、ね、惜しい惜しい、いうならば、それこそごまかしてでも、少しにしてもらいたいというような内容のものでは、天地へ対する還元にはならない、というふうに思うです。
ね、ローマ法王の、見えられたそれにけちをつけるわけじゃないけれども、もう今日のキリスト教は天地に繋がるような、何ものもない、ということだけは、はっきり言えると思うですね。ただ教えが残っている、その教えが素晴らしいと、こう、まあ、いうならば、教えに酔うておるようだけれども、その教えとても、それを行じたからというても、ね、天地が自由になると言いなさるほどしの、もう、働きは、ないのだ、起らないのだ、ということを、私は今日改めて頂きました、感じさせて頂きました。どうぞ。